将度过大学生活的校园当做是“美术馆”,作为本科4年或硕士2年间,毕业制作和研究成果集大成发表的场所。“2020年度大学毕业展·研究生院修了展”。
今年,为了应对新型冠状病毒疫情,在计算出以防止蜂拥而至的来访人数的基础上,以事先预约制等与往年不同形式举办,得益于学生们的努力和承蒙到场各位的合作,展览顺利平安结束了。
接下来,为诸位介绍按学科评选的“校长奖”获奖作品。
从各个学科只颁发给1组的本奖项,成为了代表学科的脸面,更因为13组作品的聚集成为了大学的代表。
然后围绕着那张脸,所有学生的作品都展现着各自美好的表情。
本年度因新型冠状病毒疫情,我想制作是异常艰辛的,不过,无论哪个作品都没有表现出这一点,完成度很高。而且作为作品表现的舞台,展示空间也各有各的心思,不是只展示一件作品,而是由多件作品构成空间的一部分。
校长奖的13组作品和全体学生的作品一起构成了今年的毕业展。
人从出生到死亡,都在无法从身体中剥离出来的家族关系(或其缺席)中痛苦的挣扎,同时或许也是寻求 助的生物。白井通过镜头聚焦两个家族时,浮现的不是甜蜜的理想的家庭群像,而是如果触碰便犹如鲜血般喷涌而出,干瘪的人类蠢动地方的家人,同时也是对现实感到茫然眼神呆滞的年轻艺术家的身影。
人は生まれてから死ぬまで、その身から剥がしようのない家族という繋がり(あるいはその不在)の中で苦しみもがき、同時にそこに助けを求める生き物なのだろう。白井が二つの家族をカメラで見つめることで浮かび上がってくるのは、甘い理想としての家族像などではなく、触れば血を吹き出すようなごつごつとした人間が蠢く場所としての家族であり、同時にその現実を茫然と眼差し続ける一人の若い作家の姿である。
▲ shin jiyeon 『hello guys』
“想成为专业的漫画家。”一年级的时候,她这样说过。但是,没有那种力量。3年级时,通过《young magazine》出道。但是,没有作为职业漫画家连载的能力。她缺少的是什么呢…。这样的她也要毕业了。作为毕业制作完成了3部漫画。读了作品我想。“这是职业漫画家的作品。”
然后我想。现在的她所欠缺的只有作为连载作家的业绩……这本作品集将是今后成为职业漫画家的她的足迹。
「プロのマンガ家になりたい。」1年生の時、彼女はそう言っていた。しかし、その力はなかった。3年生の時、『ヤングマガジン』でデビューした。しかし、プロとして連載する力はなかった。彼女に足りないものは何なのだろうか…。そんな彼女も卒業する。卒業制作として3作のマンガを描きあげて。それを読んで思った。「これはプロの作品だ」と。
そして思う。今の彼女に足りないものは連載作家としての実績だけだと…。この作品集はこれからプロのマンガ家になるであろう彼女の爪痕である。
▲ 市川理奈、寳生早稀 「pannymeets -カギのかかったフシギな絵本-」 撮影:吉見崚
原本是竞争对手的两人搭档,作品的成功或许就已经决定了。但是设定目标眼光之高,被无法完成的痛苦、恐惧所吞噬而哭泣,尽管如此经历激烈交锋后,面对问题逐一攻克,最后微笑的走到终点的是,两人没有耗尽积极面对的能量。技术上的新鲜感,和孩子们也能享受的可爱的世界观和角色的完成度以高水平并存。
ライバルだった2人が組んだときに作品の成功は決まったのかもしれない。しかし目指した山の高さに目がくらみ、完成しない恐怖に飲み込まれ、苦しみ、泣き、それでも激しく意見を戦わせ、問題に立ち向かい、最後に乗り越えて笑うところまで辿りつけたのは2人の前向きなエネルギーが尽きることがなかったからこそ。技術的新鮮さと、子供にも楽しんでもらえる可愛らしい世界観やキャラクターの完成度を高いレベルで両立させてくれた。
▲ 磯本朱里 「red fish station」 撮影:吉見崚
信息设计学科
整个空间充满了角色和物体的描绘,设置了显示器,回响着音乐和se,其背后是无限的宇宙,前方还设置了路障和标志。它们各自从原始角色中解放出来,不分主次,即便如此也在一定的关系下保持着均衡。这种空间造形反映了矶本朱里的身体运动。如果该行为被影像化,那也应该成为作品的要素。不是有了场所才会有人聚集,而是有人聚集了才有了场所。随着信息技术的饱和,新的连接需要生物的场所。矶本应时代的需求,在毕业制作中将这个“场所”开拓到了宇宙。
空間全体はキャラクターと物体の描き割りに溢れ、モニターが設置され音楽やseが響き、背後には巨大な宇宙、前方にはバリケードユニットと標識も配備された。それぞれは本来の役割から解放されメインとサブの判別がつかず、それでも一定の関係の下で均衡を保っている。こうした空間造形は磯本朱里の身体運動を反映している。もしその行為が映像化されたなら、それも作品の要素となったはずだ。場所ができて人が集まるのではなく、人が集まることで場所ができていく。情報のテクノロジーが飽和し、新しい繋がりがバイオな場所を必要としている。磯本はそういう時代の要請に応え、卒業制作ではこの「場所」を宇宙へ拓いた。
游戏控制手柄是全面捕捉娱乐体验时的关键产品。该作品基于初学者的目标设定上,以新的视点,精心积累了将人类和游戏世界的各种各样的复杂要素连接在一起的体验价值。制作的动作模型和3种试玩标题,带着销售的意识展开,系统地涵盖本学科倡导的“物”“事”“场”的高维统合,可以成为后辈榜样的作品之一。
ゲームコントローラーは、エンターテインメント体験を包括的に捉えた時の要のプロダクト。ヒトとゲーム世界を結ぶ様々な要素が複雑に絡みあう体験価値を、初心者というターゲット設定に於いて、新たな視点を基盤に、丁寧に積み上げてまとめた秀作。作り込まれた動作モデルと3種の試遊タイトル、販売まで意識した展開は、学科の標榜する「モノ」「コト」「場」を体系的に網羅し高い次元でまとめた、後進の規範のひとつとなり得る作品。
▲ 溝部千花 「naptime with mountain」
我们生活在有形和无形的商品的包围中。这些商品大部分都不知道是谁在哪里如何制作的。看不见事物关联的系统不可能让我们幸福。沟部千花进入深山,直接从自然中获取资源,组合这些资源,同时与各种各样的人合作,创造出相遇的空间。太棒了。像她这样直接的、小的、地方性的活动扩大的话,我们的未来定会一片光明。希望今后也能继续开展连接山区和城市的活动。
私たちは有形無形の商品に囲まれて暮らしている。それらの商品は、どこで誰がどのように作ったのかわからないものが大半である。ものの連関が見えないシステムが私たちを幸せにできるはずがない。溝部は、山に入り資源を自然から直接入手し、それらを組み合わせながら様々な人と協働して出会いの空間をつくっている。素晴らしい。溝部のような直接的で小さくてローカルな活動が広がれば私たちの未来はきっと明るい。中山間部と都市部を繋ぐ活動を今後も継続して欲しいと願う。
毕业展即将开幕之际,矶村香奈的模型终于完成了,之后也多次在会场仔细端详,每次都有什么东西涌上心头。这部将三条地区从河原町至鸭川剧场化的作品,正如作品名所示,“时间之声”被折叠起来人声嘈杂。从临时的脚手架到the fun palace出现的钢框架,在保证了喧嚣的节日感的同时,也暗示了它的虚幻。且每次回过神来,都只有静寂。
卒展開幕間際にようやく完成した磯村香奈の模型をその後も幾度となく会場で仔細に眺めているが、その度毎に何か胸に突き上げてくるものがある。三条界隈を河原町から鴨川まで劇場化したこの作品には、タイトルにあるように「時の声」が折り畳まれざわめいている。仮設足場からファンパレスを経て現れた鉄骨フレームは、ざわめく祝祭性の顕現を保証すると共にその儚さをも示唆する。そしていつも気づくとそこには静寂しかないのだ。
(教授 小
野暁彦)
大学生活を過ごしたキャンパスそのものを“美術館”と見立て、学部4年間あるいは修士2年間の集大成である卒業制作や研究成果の発表の場「2020年度 卒業展·大学院修了展」。
新型コロナウイルス感染症対策を入念に講じ、蜜にならない来場者数を算出した上での事前予約制をとるなど、例年とは異なる形態での開催となりましたが、学生の皆さんの努力とご来場いただいた皆さまのご協力のおかげで無事にその会期を終えました。
さて、学科ごとに選定される「学長賞」受賞作品をご紹介いたします。
学長賞の13組の学生さんとその作品に対し、おめでとうございますの言葉を贈ります。
それぞれの学科から1組のみにしか与えられない本賞は、学科を表す顔になり、更には13作品が集まることで大学の顔になります。
そしてその顔を取り囲むように全学生の作品がそれぞれの素敵な表情を見せています。
今年度はコロナ禍の中、非常に大変な制作だったと思いますが、どの作品もその苦労を感じさせないものに仕上がっていました。そして作品の舞台となる展示空間にもそれぞれの工夫があり、1作品だけを見せるのではなく、いくつもの作品が空間の一部として機能していたように思います。
学長賞の13作品は全学生の作品とともに今年度の卒業展をつくりあげました。
以冲绳县的与那国岛出生成长的导演为中心,作为对故乡的热爱和花费时间探究的成果而诞生的力作。最初,该企划是以在岛上进行全面的外景拍摄为前提,但是由于新型冠状疫情扩大的影响,在当地被迫限制了拍摄,和在京都拍摄的素材混剪完成了该作品。在追求现实和奔放的想象之间,“此岸”与“彼岸”之间拼命奔跑的少女身影令人感动。
沖縄県の与那国島で生まれ育った監督を中心に、故郷への愛情と時間をかけた探究の成果として生み落とされた力作。当初は島での全面ロケを前提とした企画だったが、新型コロナウイルス感染拡大の影響で現地での撮影を限定的なものにとどめることを余儀なくされ、それらを京都で撮り足された素材と混交される作品に仕上がった。リアリティの追求と奔放なイマジネーションのあいだ、「此岸」と「彼岸」のあいだを懸命に駆け抜ける少女の姿が胸を打つ。
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▲ 十川明 「太陽の国」舞台映像 撮影:吉見崚
舞台影像非常难。因为一不小心就会变成单纯的视频效果或投影。十川对这个难题毫不妥协,坚持不懈地挑战着。以坚实的技术和感观为支撑的影像表现,完美地整合了舞台美术、照明、音响等各种效果,创造出一种整体感,成功地将观众带入作品的世界中。而且把戏剧结构的弱点——舞台转换提高至不可错过的看点,是与舞台影像相符的完成度很高的作品。
舞台映像はとても難しい。ともするとただの映像効果やプロジェクションマッピングになってしまうからだ。十川はこの難題に対して一切妥協せず粘り強く挑戦を続けた。確かな技術とセンスに支えられた映像演出は、舞台美術や照明、音響などの様々な効果を見事にまとめあげ一体感を生み出し、観客を作品世界へとひきこむことに成功した。さらに劇構造の弱点である舞台転換をひとつの見所になるまで高めた映像はまさに舞台映像に相応しい完成度の高い作品だった。
未婚母亲的苦恼、亡母与女儿的心结、血缘的肯定等,本作品的主题普遍而深刻,但缺乏新意。然而即便如此,还是会被故事所吸引,内心也会受到强烈的震撼,这大概是因为作者醇熟的文笔和人性的成熟度,以及覆盖整部小说的强烈的悲壮和紧迫感。如果有作为作家的真正实力,就不必依赖小动作或变化球,只要使出浑身解数的直球就能令读者着迷。
未婚の母の苦悩、亡き母と娘のしこり、血脈の肯定など、本作のテーマは普遍的で深刻な一方で、やや新味には欠ける。しかし、それでも物語に引き込まれ、心を激しく揺さぶられてしまうのは、著者の圧倒的な筆力と人間的な成熟度、そして小説全体を覆う強烈な悲壮感と切迫感によるものだろう。書き手としての真の実力があるなら、小細工や変化球に頼ることなく、ど真ん中に渾身のストレートを投げ込むだけで、読者を魅了できるのだ。
▲ 山本睦月 「怖くて素敵な〈魔女〉-1925年代における〈魔女〉イメージの転換-」
曾经令人畏惧的魔女不知从何时起变成了令人憧憬的对象。本文通过重新审视明治时代以后的出版物,对20世纪60年代这一绘画时期进行了重新探讨,并在1925年左右发现了其变化的征兆。通过对魔女的论述,来询问人们对女性的看法,这一手法以坚实的资料调查和明确的问题意识为支撑,这也使得本文的学术价值得以确定。
かつて畏怖の対象であった魔女はいつの頃からか憧れの対象へと変容した。本論は、1960年代とされてきたその画期を明治以降の出版物を時代を追って丹念に渉猟·検証していくことで再検討し、その変容の徴候を1925年頃に見出していく。魔女について論じることで女性へと向けられた眼差しの有り様を問うその手付きは、堅実な資料調査と明確な問題意識に支えられており、そのことが本論の学術的価値を確かなものにしている。
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▲ 曽田みなみ 「おとがなるころ」
曾田说:“在我生长的家乡神户,有家人和朋友的回忆,也有我‘未知’的震灾。”曾田想要探索“未知”的过去,并将自己的发现与大家共享,这种想法以“绘本”的形式,大胆而细腻地表现出来。其中,以与震灾相关的采访和调查为基础创造出来的情景,给人留下了深刻的印象。是在神户成长的意义,以及构筑对当地的新感情的热情中汲取的力作。
「生まれ育った地元、神戸の町には、家族や友人の思い出と、私の “知らない” 震災がある」と曽田は語る。“知らない” 過去を探り、その気づきを皆と共有したい、という曽田の意欲は、「しかけ絵本」という形となり、大胆でかつ繊細に表現された。なかでも、震災に関わるインタビューやリサーチをもとに創り上げられた情景は、とても印象的である。神戸で育つという意味、また地元への新たな想いを構築しようとする熱意が実を結んだ力作である。
▲ 近藤真愛 「平安貴族の饗宴 -宇治別業出土土師器皿の考古学的研究-」
该研究从宇治的宅邸遗迹中发掘出的数百个素烧小碟子中,对平安贵族的宴会实况进行了分析,从样式、尺寸、数量的分析中指出了这个土器群与《饿鬼草子》画卷中的宴会场面的相似性。这是一项用考古学的方法揭开看似明白却又不明白的贵族宴会一角的研究,是对碎片化、令人厌烦的庞大出土土器进行顽强抵抗而取得成果的劳作。
この研究は平安貴族の宴会の実態を、宇治の邸宅遺跡から発掘された数百に及ぶ素焼き小皿から迫り、型式·法量·数量の分析からこの土器群と「餓鬼草子」絵巻の宴会場面との類似性を指摘した。分かっていそうで分からない貴族の宴会の一端を考古学的に解明した研究で、破片化し嫌になりそうな膨大な出土土器に、まったく根気強く立ち向かい成果獲得した労作である。
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瓜生山学园?京都文化日本语学校
2021年10月、2022年4月入学 接受前期申请
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